石塔寺三重塔(前編)



石塔寺三重塔(白鳳時代)




石塔寺三重塔は、境内石段を登りつめた丘の上にあります。その高さなんと7㍍44.5㌢

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                                              石塔寺三重塔重要文化財

しかし近江でもっとも有名なこの石造三重塔の時代についての研究は、いまだ謎のベールにつつまれたままなのである。
明治に出版された吉田東伍氏の 「大日本地名辞書」 によると、

「この古石塔は天智帝の時、当郡配置の百済人の造立にあらずや」

と記され、渡来人建立説が提示されてます。
他にも石田茂作氏も、

「百済の平斉塔の姿とよく似ている」

とし、吉田氏同様、渡来人建立説を提示。
さらに、坪井良平と藤澤一夫の両氏は、

「百済的手法の多くが取り入れられていた」

と、百済の故地にある定林寺跡五重塔との比較の上から、詳細な報告を行ってます。
また、川勝政太郎氏は、薬師寺三重塔の傾斜角度に近似するとして、奈良時代説をとっています。

さまざまな説や研究結果が提示されてはいるものの、ハッキリとした年代については断定を避け、
「白鳳時代とするのが最も妥当」 という見解を提示し、結局どれもこれも曖昧なままです。



ま、時代についてはさておき、細部の状況はというと・・・

基礎は、自然石の巨大なもので、その中央に塔身がはまり込むだけの深さ30㍉程度のえぐり込みがあります。このえぐり込みの隅から外方向へ向かっての溝は排水設備でしょう。
塔身は前後二枚石で合成されてます。この合わせ目については、平百済塔(定林寺跡五重塔) にも合わせ目が見られ、一方、新羅のものはほとんど一石です。

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笠は、軒の出は深く、軒口は微妙な反りを見せ、軒口の下端が上端と同じように曲線となるところは百済の石塔そのものであります。
相輪については、坪井良平と藤澤一夫の両氏の研究結果によると、当初のものは失われており、現在は後補のものであり、後世に塔のために造られたもの、と言った具合です。

やはりいたるところに百済塔との共通点を持った石塔寺三重塔、百済遺民がこの塔を建立した可能性が高いのか?

ところが、1980年代になると、石塔寺三重塔の造立年代を平安時代とする見解が、曽和宗雄氏、野村隆氏、川勝政太郎氏によって示されることに・・・

                                                 つづく

by tokan-en-hardrock | 2008-06-24 22:35 | Hard Rock

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